「水からの伝言」何故、人って水にこだわるのかな。ああ、おいしい水が飲みたい。


「水からの伝言」を信じないでください
『「水からの伝言」を信じないでください』と言うのならやるべき事は一つだろう?
「水からの伝言」と反証問題


あまり長文を書いてしまうと、僕の馬鹿さ加減がばれてしまうので、
ちょこっとだけメモ。

1.古今東西を問わずそれ系で言及される「水」

大ヒット。ロングセラー。水 似非科学


どうしてだか、「奇跡の水」とか、「魔法の水」という言葉は、耳ざわりがとてもいいです。「波動」とか、「歴史・年月」、「思念」、「振動」、「霊験」、「精製」、「処理」といった各種キーワードとの相性も抜群なのがすごい事。こんな単語は、他にはなかなか見つかりません。


我々は、本能的に、水が人体にとって大切なものだと知っているからなのでしょうか?


2.道徳の授業につかう事は賛成できない

“たとえ話”を使った道徳の授業というのは、良くあると思いますが、
「人を傷つける言葉->体の中の水が汚くなる->そんな言葉を使ってはいけない」
というこの話は、“たとえ話”としても、許容できないと僕は考えます。


水が汚くなるから人を傷つける言葉を使ってはいけない、という理屈は、道徳としてあまりにもお粗末です。


「どうして人を傷つけてはいけないのか」とか
「どうして、人を殺してはいけないのか」といった問いには、
残念な事に、人間は今のところ十分に満足の行く説明を手にしていません。


そうであるにも関わらず、我々が「人を傷つけるべきではない」という考え方に至る事ができるという点が、道徳というものに対する人間の姿勢の中でスゴイことの一つだと思います。


「水が汚くなる〜」は、道徳の理屈として、あまりにも出来がひどすぎます。
人というのものを馬鹿にしすぎている気がします。

3.ステレオタイプなイメージ

水からの伝言」関係のページをいくつか見て思ったこと。
あまりにも、それっぽい科学像・科学者像が多い?ような印象。

1.科学(者)の保守性

科学者は、保守的&自分の保身のために“新発見”を認めない
という考え方。


UFO、幽霊、超能力関係の話題でも、よくあり。


本当のところ、こんな“新発見”があったら、
一番喜ぶのは科学者だと思う。


今までの、理論体系の修正・破棄は苦痛である場合もあるかもしれないが、
新理論を作ることのおもしろさの方が圧倒的にある


論文のネタに当分のあいだ困らなくなるので、みんなおお喜びは間違いありません。


「お化けがいるのなら食べてみたい」と思わない科学者はいません。
ただ、偽者のお化けではどうにもならないのです。


2.科学者の美的感覚・感受性


「科学者は、水のつくる結晶を見て美しいと思わないのですか?」
美しいと思うに決まっている!


科学者の感性に対する軽視がとても多い。
“偏っている”、“異常だ”、“浅い”みたいな。


数学。例。


「数学の美しさ」といっても、「ハァ?」と言われてしまう。悲しい。


“なめらか”という言葉を聞いて、よだれ垂らす数学者は気味が悪いけれども、その数学者の気味が悪いというなら、
“なめらか”という言葉を聞いてビールとかプリンしか頭に思い浮かばないの人も、同じように気味が悪いと言っていいと思う。


「数学は自然科学とも仲が良いけど、哲学とか論理学のお隣で…」とか
「この定理は、simpleで、beautifulで、usefulで、marvelousで、excitingで…」
と唾を飛ばしながら言う人の話をまったく聞かないのは「すべての音楽は雑音だ」と言うのに等しいのではないか。


もっと言うと科学者云々に限らず、他人の感性を許容したり、知ろうとする努力が不足しているのではないか。


何も、よだれ垂らす人のすぐ隣に座れ、と言っているのではありません。
遠くから、変な踊りを踊っているのをじっくり見ているぐらいのこころの余裕が欲しい、ということです。

4.気になった言葉

[参照:それぞれ上の三つのURL]

科学者は、水のつくる結晶を見て美しいと思わないのですか?

水伝は、実態はどうあれ「実験しました」と主張して科学としての外見を備えようとしているのね。そうである以上、科学のルールに則って判定するしかないんですよ。相手が科学者であろうとなかろうと、科学を装う行為は、科学の側が作ってきた信頼を横からかすめ取る行為ですから。

本来、健常な社会は「こういう事があるよ」「本当か?どうしてそう思うのだ」「これこれこうだから」「いやいや、それだけの証拠でこうだと言うのは早計だろう」といった保守性があるのが普通であり、その保守性が崩れているからこそ「起こりえない事」が起こったと考えるなら、反証実験により人が思い直したからといって、根本的な保守性の再構築はできていないと思えるわけです。


「科学の力は欲しい、でも科学者は邪魔だ」というのは危険な気がする。